飯田橋駅横の早稲田通りを挟む一対の石垣。これは1636年、阿波徳島藩主・蜂須賀忠英によって築かれた江戸城外堀の門、牛込見附の地上に残る唯一の遺構です。門は1872年に取り壊され、石垣の大部分も1902年に撤去されましたが、残された石積みは国指定史跡「江戸城外堀跡」の一部として保護されています。
飯田橋駅西口を背にして、早稲田通りの向こう側を見てください。道路の両側に、古びた石の塊が鎮座しています。 squat(ずんぐりとした)で風雨に晒された、見過ごしてしまいそうなこの二つの塊こそ、この散策ですべてを見る理由であり、今日目にするものの中で最も古いものです。
ここが牛込見附でした。「見附(みつけ)」とは「見つける」という言葉に由来し、番兵が往来する人々を監視した場所を指します。江戸城外堀において道路が水路を横切る地点に、門と橋、そして内側に番所が設けられていました。江戸には36の見附があったと言われていますが、実際は主要な門が26、その他重要な場所が10か所程度です。赤坂見附や四谷見附のように、門自体は消えても名前だけが残っているケースがほとんどです。
ここで巧妙なのは「枡形(ますがた)」という構造です。江戸の門を通り抜ける際、まっすぐ進むことはできません。橋を渡ってまず低い門をくぐり、四方を壁に囲まれた広場に入ります。すると、二つ目の大きな門が直角に構えています。攻め入る者はこの角で勢いを削がれ、さらに四方の壁上から迎撃を受けることになるのです。この先に有名な神楽坂の曲がり角がありますが、この構造を頭に入れておいてください。
門が築かれたのは1636年、江戸城の総仕上げとなる大普請の時です。将軍・徳川家光の命により、約120人の大名が動員されました。費用はすべて各藩の持ち出しで、これこそが幕府の狙いでもありました。牛込の担当は阿波の蜂須賀家でした。蜂須賀忠英は徳島から600キロ以上離れたこの地へ、自分用ではない門のために人と石を運び込みました。石垣と土橋はその年に完成し、翌年には櫓や門扉も整いました。
興味深いのは、道路向かいの教会の建て替え時に、門の地下の基礎から発見された石です。そこには「阿波守内」という文字が刻まれていました。これは、当時の工事担当者が、二度と人目に触れない場所であるにもかかわらず、主の名を石に刻んだという記録です。
現在地にあるのはごく一部です。1872年に門は取り壊され、1902年に石垣の大部分も姿を消しました。残っているのは枡形の両側の壁のみで、その間を現代の道路が通っています。角の部分を見てください。長い面と短い面を交互に組み合わせる「算木積み」という技法が用いられており、崩れにくい工夫がなされています。1956年には国指定史跡となりました。
次に水面を見てください。この堀はゼロから掘られたものではなく、元々あった谷を広げたものです。1894年にはこの堀の空間を利用して鉄道が敷かれ、牛込駅ができました。土手の上は公園になっています。堀のもう一つの遺構であるボート乗り場が、次の目的地です。
最後に道路のことです。この門から先へ、道は西の坂を上り、神楽坂、高田馬場、板橋へと続きました。門と道路がある場所には往来が生じ、往来は寺院や宿屋、茶屋を生みます。そして一世紀半後、坂の頂に寺院が定着し、その門前で商いが発展しました。この順序が重要です。この坂は今のような街になるために作られたのではなく、この門のために作られ、後のすべての店主は間借り人に過ぎないのです。
地名でさえ受け継がれたものです。「牛込」は、8世紀に武蔵国に置かれた勅旨牧の「牛の囲い」に由来すると一般的に説明されます。後年この丘を治めた武士の一族は、地名を自分の姓にしました。私たちの散策の最後は、彼らがこの地にもたらした神社へと向かいます。
実際の案内:全10スポット、約2キロの距離を90分程度で巡り、神楽坂駅で終了します。散策自体は無料ですが、コーヒー代や銭湯代などの実費はかかります。坂の勾配や石段があるため、歩きやすい靴でお越しください。また、もし可能であれば、正午に第4スポットに到着できるよう調整することをお勧めします。メインストリートで起こる、一見の価値がある出来事に間に合います。
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