坂と忠義:愛宕山から四十七士まで
東京 · Japan

坂と忠義:愛宕山から四十七士まで

東京, Japan
120
所要時間(分)
4.9
距離(km)
8
スポット数
普通
難易度

説明

かつての江戸の低地は幾度もの火災と再建を経てその面影を失いました。しかし、港区の丘の上には、坂、門、墓という、動かすことのできない三つの遺構として江戸が生き残っています。この散策は、1634年に将軍にその勇姿を見せるため、一人の武士が馬で駆け上がったという伝説が残る86段の石段から始まります。東京23区内で最も標高の高い自然の丘を巡り、1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲の双方を生き延びた1622年建立の門をくぐり、6人の将軍が眠る扉の前へと向かいます。さらに、かつて日本が自らの手で建てた塔の下を通り、日本史上最も語り継がれてきた復讐劇の結末の地、300年以上もの間、香の煙が絶えることのない泉岳寺へと至ります。

ハイライト

愛宕神社の出世の石段 — 86段、傾斜約40度。歩くのが難しい方にはエレベーターも完備 1860年、雪の中で襲撃者たちが集い、麓へと下っていった頂上 増上寺の三解脱門 — 1923年と1945年の災禍を免れた唯一の主要建築物。2032年まで修復工事用シェルターの中にあります 6人の徳川将軍が眠る青銅の扉と、1958年に遺骨を資料のように調査した際の発掘記録 東京タワーを真下から見上げ、その鉄骨の由来を知る(無料で見学可能) 泉岳寺と四十七士の墓、そして誰かが書き残した首の受取書

ツアースポット

愛宕神社の「出世の石段」(男坂)
1

愛宕神社の「出世の石段」(男坂)

5 分

愛宕山の86段の石段。傾斜は約40度で、1634年に丸亀藩の曲垣平九郎が徳川家光公に梅の枝を献上するため馬で駆け上がったという逸話から「出世の石段」と呼ばれています。隣にはなだらかな109段の女坂があり、麓には神社まで行ける無料の公衆エレベーターも設置されています。

愛宕神社頂上
2

愛宕神社頂上

5 分

標高25.7メートルの愛宕山は、東京23区内で最も高い自然の丘です。1603年に徳川家康が命じて建立された防火神社は、江戸の街を一望できる場所として選ばれました。現在、その眺望はオフィスビルに囲まれています。

増上寺の三解脱門
3

増上寺の三解脱門

5 分

高さ約21メートルの朱塗りの三解脱門は、1622年に完成しました。増上寺で関東大震災と東京大空襲の双方を免れた唯一の主要建築物であり、国の重要文化財に指定されています。現在は大規模な修復工事のため2032年秋まで仮設シェルターに覆われていますが、門の下を通ることは可能です。

増上寺大殿(本堂)
4

増上寺大殿(本堂)

5 分

増上寺は1393年に東日本の浄土宗の教化の拠点として開かれ、1598年に徳川家康の菩提寺となり現在地に移転しました。現在の大殿は1974年に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、かつて82万6000平方メートルの広大な境内を誇り、3000人の僧侶が修行した場所の一部に立っています。

将軍家の墓所へ続く青銅の扉
5

将軍家の墓所へ続く青銅の扉

5 分

増上寺の徳川将軍家墓所は、かつて6代将軍・家宣の霊廟にあった青銅の門によって仕切られています。門の向こうには15人の将軍のうち6人と和宮親子内親王が眠っています。門自体は寺の境内から無料で見学できます。

芝公園と東京タワーの足元
6

芝公園と東京タワーの足元

5 分

東京タワーは1958年12月23日に高さ332.9メートルで完成しました。関東地方の放送用集約電波塔として建てられ、鉄骨の約3分の1には朝鮮戦争後に廃材となったアメリカ軍の戦車が再利用されています。足元の公園は明治政府が増上寺から接収した土地であり、地上からタワーを眺める場所はすべて無料です。

幽霊坂
7

幽霊坂

5 分

三田にある静かな住宅街の坂。港区の標識があり、由来には二つの説があります。1635年に移転してきた寺院が立ち並び、夜は幽霊が出そうなほど暗かったためという説と、明治時代に初代文部大臣・森有礼の名をもじったという説です。江戸がなぜ坂に名前を付けたのかを理解するのに最適な場所です。

泉岳寺と四十七士の墓
8

泉岳寺と四十七士の墓

5 分

1612年、徳川家康により開基され、1641年の大火後に高輪へ移転した泉岳寺。ここには、主君の敵を討った赤穂浪士の四十七士の墓と浅野内匠頭の墓があります。討ち入りで手に入れた仇の首を主君の墓前に捧げた際に交わされた受取書が今も保管されており、毎日多くの参拝者が訪れます。

ツアーの一部をご紹介

これはこのルートのあるスポットで実際に読める解説です。どのスポットにも用意されています。

愛宕神社の「出世の石段」(男坂)

歩き出す前に、まずは下から見上げてください。約40度の傾斜で、17メートルほどの緑の壁に向かって伸びる86段の石段です。一段の高さは約20センチですが、足場が狭いため、見た目以上に険しく感じられます。ここから見ると、もはや建築というよりは、誰かが間違いを犯してそのまま放置したかのようにさえ見えます。 東京で400年近く「出世の石段」と呼ばれている理由は、一頭の馬にあります。 言い伝えによれば、1634年、三代将軍・徳川家光公が菩提寺からの帰途、この丘の下を通りました。家光公は丘の上の紅白の梅が見事に咲き誇っているのを見て、「誰か馬で上がってあの梅を取ってこい」と命じました。家臣たちは石段を見上げ、馬を見比べましたが、誰も動けません。その静寂を破り、四国丸亀藩の家臣であった曲垣平九郎が馬で駆け上がり、梅を折り、無事に下りてきました。家光公はその場で彼を「日本一の馬術の名手」と称え、無名だった平九郎は一躍有名になりました。 ただし、この物語には少し注意が必要です。主に日本の伝統的な語り芸である講談の「寛永三馬術」として伝わっている話だからです。つまり、観客を惹きつけるために物語として磨き上げられている側面があります。事実かどうかは別として、目の前にある石段は本物であり、何世代もの日本のビジネスマンが、面接の前などの大事な折にここを登れば縁起が良いと信じ、挑戦し続けてきました。 伝説には語られない、個人的に最も気に入っている部分があります。その後、この技を再現した人物は記録上たった3人しかいません。明治時代に曲馬師の石川清馬、1925年に陸軍の厩務員・岩木利夫が軍馬で約1分で登頂、そして1982年にはスタントマンの渡辺竜馬がテレビ番組のために32秒で登りきりました。つまり、登ることは見せ物としては可能ですが、問題は下りです。岩木氏の馬は登るのに1分かかりましたが、下りるのには約45分もかかりました。馬は勢いで突進することはあっても、40度の傾斜が床であるとは納得しないからです。出世した後にその仕事の過酷さを知る人なら、この構図に共感できるのではないでしょうか。 左側に目を向けると、109段のなだらかな「女坂」があります。一方、こちらが男坂です。名称は江戸時代の慣習で、今では誰も気に留めません。坂全体が港区の登録有形文化財となっています。 階段を登るのが厳しい日は、無理をする必要はありません。丘の麓、トンネルの横に神社まで直通の無料エレベーターがあります。切符も許可も不要です。頂上の道は砂利道ですが、バリアフリーで移動できます。汗をかかずに、皆と同じ頂上にたどり着けます。利用して、頂上で合流しましょう。ここはこのツアー唯一の本格的な登り坂です。これ以降は、平坦な街へと緩やかに下っていきます。 それがこのツアーのテーマであり、ここがその起点です。麓の低地では、江戸は何度も焼き払われ、再建を繰り返したため、当時の痕跡を見つけることは困難です。しかし、丘の上には、坂、門、墓という、動かすことのできないものとして江戸が生き残っています。皆さんは今、その最初の一つに立っています。 登る前に一つだけ。この散策は、人々がどのように名を残そうとしたのか、その足跡を辿る物語です。階段を登った男、石に刻まれた徳川の統治。そして最後には、その問いを極限まで追求した47人の物語へと繋がります。

東京 のその他のツアー

近くの都市

東京 のツアーに戻る

Cookieの同意

サイトのトラフィック分析と体験向上のためにCookieを使用しています。分析Cookieを承認または拒否できます。 詳細を見る