将軍が築いた島:佃と月島
東京 · Japan

将軍が築いた島:佃と月島

東京, Japan
75
所要時間(分)
2.6
距離(km)
8
スポット数
簡単
難易度

説明

徳川家康が本能寺の変の後の逃避行中に、33人の漁師に助けられ、その礼として島を与えられたという逸話は、いたるところで目にします。しかし、その内容のほとんどは誤りです。彼らの功績が史実であることは間違いありませんが、住吉神社の伝承では、それは1586年のごくありふれた出来事だったとされています。摂津国を旅していた家康は、橋のない神崎川に差し掛かり、そこにいた村の長が漁師たちを呼んで船で対岸まで渡した、というのです。この時の恩義こそが、この散策のすべての始まりです。1590年、漁師たちは家康に従って江戸へ移り住みました。湾内での独占的な漁業権を得たのはその後の1613年のことであり、将軍が島を直接与えたという事実もありません。彼らは干潟を埋め立てて島を作る許可を得て、十余年をかけて自ら島を築き、かつて自分たちが暮らしていた村の名前を付けたのです。この散策は、すべてが一望できる小さな赤い橋から始まります。目の前には木造家屋と係留された小舟、背後には1980年代の高層ビルが並んでいます。そして、彼らが1646年に創建した神社、1837年から同じ場所で余った魚を醤油で煮込んできた店、ペリー来航をきっかけに漁村が造船所へと変貌した海岸線を巡ります。続いて、十九世紀に築かれた月島へ。ここでは、同じ気質が子供のおやつを80軒もの飲食店が並ぶ通りへと変えました。ツアーは、大戦の影で中止に追い込まれた万国博覧会の玄関口として1940年に架けられた可動橋で締めくくられます。

ハイライト

碑文に刻まれた短縮版とは異なる、正しい創建の物語 1646年、摂津から移住した漁師たちが創建した住吉神社と、塩害を防ぐために施釉された陶製の扁額 漁師の島が、なぜ「耕作地」を意味する名前であるのか 1837年からこの地で佃煮を作り続ける「天安」 — 島の名前がいかにして日本全国で売られる食品となったか 1853年、ペリー艦隊の来航に伴い幕府が命じた造船所と、碑文が記念する1876年の再建について 月島もんじゃストリート:子供向けだった安価な小麦粉のおやつが、今では80軒を超える店に 勝鬨橋:1960年代後半に船のために開かれたのが最後となり、1970年の試験運用以降は動かなくなったその姿

ツアースポット

佃小橋
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佃小橋

5 分

佃小橋は、佃の中心にある船溜まり「佃堀」に架かる小さな赤い橋です。現在の橋は1984年に架け替えられたものですが、島が完成した1640年代からほぼこの位置に橋が架けられてきました。橋の中央からは、係留された船や低い瓦屋根の家々、そしてすぐ背後にそびえ立つ大川端リバーシティ21のタワーマンションが見えます。

佃住吉神社
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佃住吉神社

5 分

住吉神社は1646年、摂津国佃村から徳川家康に従って1590年に江戸へ移住し、10年余りをかけて干潟を埋め立てて島を築いた漁師たちの氏神として創建されました。陶製の扁額や石灯籠、現存する986点の文書は、佃が単なる埋め立て地ではなく、移住した村であることを証明しています。

天安(佃煮店)
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天安(佃煮店)

5 分

佃1-3-14で1837年から営業する「天安」は、島に3軒残る佃煮店の中で最も歴史があり、現在も小魚やあさり、昆布を醤油、みりん、砂糖で煮込み、木造の店先で量り売りをしています。佃煮は、漁村で売れ残った魚を無駄にしないための工夫としてこの地で始まり、その名は現在、場所ではなく製法として全国に広がっています。

石川島造船所跡記念碑(佃公園)
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石川島造船所跡記念碑(佃公園)

5 分

石川島公園にある川沿いの記念碑は、1853年にペリー艦隊が湾内に停泊する中、幕府が水戸藩に命じて日本初の近代的な西洋式造船所を建設させた場所を示しています。1876年に民間造船所として再出発し、現在のIHI(旧石川島播磨重工業)へと成長しましたが、103年にわたる工場の歴史は、背後のマンション建設のために1979年に幕を閉じました。

佃リバーサイドテラス
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佃リバーサイドテラス

5 分

佃の隅田川堤防の遊歩道にある小さな展望ポイントです。1993年に完成した斜張橋の「中央大橋」と、大川端リバーシティ21のタワーマンションが一望できます。テラスそのものは、かつて島を川から切り離していたコンクリートの防潮壁に代わって造られた、高潮対策の防潮堤の一部です。

月島西仲通り(もんじゃストリート)
6

月島西仲通り(もんじゃストリート)

5 分

月島西仲通りは、歩道にアーケードが広がり、約80軒のもんじゃ焼き店が並ぶ商店街です。かつて駄菓子屋の鉄板で子供のために焼かれた、小麦粉を水で溶いたおやつがこの地の食文化となりました。月島自体は、東京湾の埋め立てによって1892年に完成した19世紀の島です。

川島屋(西仲通り)
7

川島屋(西仲通り)

5 分

月島3-7-10にある食料品・酒販店の「川島屋」は、明治時代から西仲通りで商いを続け、今も地元住民や周辺の飲食店に商品を供給しています。ここは飲食店街の中にありながら、日常の買い物をする場所としての顔も持っています。この通りには他にも明治時代からの履物店や本屋が並んでいます。

勝鬨橋
8

勝鬨橋

5 分

勝鬨橋は、1940年6月14日に完成した二葉式跳開橋です。戦争の影で中止された万国博覧会の式典用玄関口として架けられました。4,000トンの橋桁が約70秒で70度まで跳ね上がる光景が見られましたが、1970年11月29日の最後のリフト以降は動いていません。2007年に国の重要文化財に指定されました。

ツアーの一部をご紹介

これはこのルートのあるスポットで実際に読める解説です。どのスポットにも用意されています。

佃小橋

まずは橋の上に立ってみましょう。有楽町線と大江戸線の月島駅から路地を北へ数分歩いた場所にあります。ここから先、全8カ所、全長約2.5キロの平坦な道のりを、およそ75分かけて巡ります。入館料などは不要で、車がほとんど通れないほど細い道が続きます。これから1時間、心に留めておいてほしいのは、これから目にする風景のほとんどが「誰かの住まい」であるということです。路地は静かに歩き、玄関先の撮影は控えてください。橋の中央に立ち、水面を見下ろしてみましょう。 目の前にあるのは船溜まりの佃堀です。ここはもともとあった水路が埋め立てられ、行き止まりとなった「佃川支川」の名残です。石垣沿いには小型の船が並び、低い船体が水面に浮かんでいます。その背後には、都心の東京では珍しくなった2階建ての家屋が並び、洗濯物が干され、壁にはエアコンの室外機が取り付けられています。そしてその屋根のすぐ後ろには、大川端リバーシティ21のタワーマンションが垂直にそびえ立っています。古い生活と新しい風景が、一つのフレームに収まっています。あえて説明する必要はないでしょう。ただ、その対比をご覧ください。 足元の橋は見た目よりもずっと新しいものです。現在の橋は1984年に完成し、赤く塗られた欄干や擬宝珠(ぎぼし)、石造りのアーチは、当時の景観を意識して設えられたものです。しかし、島が完成した1640年代から、ほぼこの位置に橋が架けられてきました。1679年の江戸図にも、佃を東と西に分ける堀と、現在の場所に近い位置に架かる橋が描かれています。 次に、欄干から泥の方を見て、佃住吉講が設置した看板を探してみてください。そこにはあるものが埋められており、3年に一度、川底から引き揚げられます。ここから2分ほどの神社で、それが何なのか、なぜ泥の中に保管するのが最適なのかを知ることができます。それは佃ならではの答えであり、それを守り続ける人々の前で耳を傾ける価値があります。 それこそが、この散策の共通のテーマです。この地に自然のままのものは何もありません。皆さんが立っている島は、別の場所から移住させられた人々が干潟を埋め立てて築いたものです。彼らは隅田川の河口にある、低くて不便な場所を与えられましたが、そこを江戸が必要とする場所に変えました。この歩みは、この後の1時間で繰り返し語られます。 この島が「遠い場所」であったことは、想像以上に長い間影響を与えました。1964年まで、ここには車両が渡れる橋がなく、佃へは船で渡るしかありませんでした。その歴史については後ほど触れます。数カ所先の堤防からは、この対比がより鮮明になります。そして最終地点には、この橋よりもずっと大きな橋が待っています。 もし岸壁で短い竿を持っている人を見かけたら、そのままにしておいてあげてください。彼らはハゼを釣っており、この水辺が今も生きている証拠です。

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